Columnコラム

D_collaboration

美術家

ASAO TOKOLO

野老 朝雄
美術家。幼少時より建築を学び、
ロンドンAAスクールを経て、江頭慎に師事。
2001 年9月11日より「繋げる事」をテーマに、単純な幾何学原理に基づいた紋様の制作を開始。
以後、美術、建築、デザインを横断した活動を続け、近年では、2020年夏季東京オリンピック・パラリンピックのエンブレム、文京区シンボルマーク、大名古屋ビルヂングファサード、BAO BAO ISSEY MIYAKEにアートワークを提供する等、様々な分野の作品を手がけている。1女のパパ。


野老さんのアトリエにて、
今回のダッドウェイとのコラボについて、
お話をうかがいました。

2020年夏季東京オリンピック・パラリンピックの
エンブレムを手がけたアーティストの野老朝雄さん。
実はダッドウェイの地元、横浜ともゆかりが深く、
野老さんにとって初となる個展(2001年)は
横浜の地で開催され、
制作活動を行うスタジオを構えた時期もありました。

「東京生まれ東京育ちですが、
中学生の頃から横浜に惹かれ、よく訪れていました。
海が近くて、東京とは全く違う顔を持つ横浜は、
私にとって良い意味での"非日常"。
アーティストとして苦しい時期も過ごしましたが、
自分の作風が固まる時でもあり、ぎゅっと凝縮された時間でした」


幼い頃の体験が、
今につながっている

建築家であるお父様の影響を受け、
幼い頃から建築に興味を持っていたという野老さん。
周りがアニメや漫画、名実ともに建築の学徒となったのです。ゲームに夢中になるなか、
建築現場で遊び、建築雑誌を読み耽る幼少期を過ごしたそうです。
子どもにとって育つ環境は、
その子の興味関心の対象として
少なからず影響を与えることがわかります。

「父からは良くも悪くも大きな影響を受けましたが、
私は、誰のもとに生まれるかということは、
子どもの将来にあまり影響を与えないと思うんです。
なぜなら、今の時代、親がどんな仕事をしているのか、
どんな風に働いているのか、
実際に見る機会はなかなかありませんから。

ところが私は、幼い頃から現場や事務所へ連れて行かれ、
本物の道具に触れることができました。
当然、怪我をすることもありましたが、それがとても楽しかったんです。
自分用のヘルメットも誇らしかった。
何を習ったわけではありませんが、
その楽しかった時間が原体験となり、今の私があるのかもしれません」


建築の実践の場から、その楽しさを知った野老さんは、
その後も建築の持つ力や可能性に魅了され続けました。
高校生の頃には、お父様の建築事務所で
アルバイトをするようになり、
名実ともに建築の学徒となったのです。

「建築の役割というものは
どんどん変わりゆくと思うんです。
近代建築家たちが果たした役割と、
父やその世代の建築家たちが残したもの。
さらに私が学んだ時代と現代とでは、
その役割が全く異なります。

実際、自分がどこまでそういったことを
意識しているかは、自分自身にもわかりません。
けれども今、私が創り出しているような、
いわば少し"ズレた"ことをしていても、
建築は許容してくれると思うのです。
私は、今でも建築に対しての憧れや誇りがありますし、
今もなお、建築の学徒だと思っています。
だからこそ、建築を学び始めると
すぐに教えてもらう図学を、
今も延々とやり続けているんです」


親ができることは、
努力の仕方を
伝えること

早期教育が当たり前となっている現代。
子どもたちは毎日のように習い事に通います。
一方で、日本人は創造力やイノベーション創出力に欠けると言われ続けています。
今後、AIが台頭する社会において、ますます「アート」や「デザイン」が重要視されてくるなか、
日本人が不得意とするこれらの力を養うために、親ができることはどんなことなのでしょうか。

「私にも5歳の娘がいますが、私が良いと思ったことが、必ずしも子どもが良いとは思いません。
その逆も然りで、むしろ、理解できないことの方が多い。
子どもがその時々に好きになるものには抗えませんから、
そこはあまり考えない方が良いと思っています。
これだけ情報が溢れる時代ですと、数多あるなかから文脈をどう見つけ出すか、
美的な何かを切り取るかは、自分次第です。
親ができることは、自身の姿勢から、
努力の仕方を伝えることなのかもしれません」

事実、九州で開催された有田焼の展覧会の設営時に
娘さんを同伴した際、娘さんは作品を一枚も割ることなく、
日常でお母様を手伝う延長で、
列品のお手伝いをされたそうです。
日頃から、両親が仕事や作品に向き合う姿を見ていたからできたことなのでしょう。

「学校でもアートだけが特別なものと見なされますが、
本来は美術×数学、図工×算数と融合するべきなのです。
例えば先生の板書から、
意味あるグラフを描くとか日本地図を特色を持って描くとか、これらはデザインです。
両者が一緒になっても面白いですよね」


モチーフの原点は、
生家の紫陽花

今回、ダッドウェイとのコラボレーションとなった
「ベビーハイドランジア」は、
優しい紫陽花のモチーフがとても印象的です。
このモチーフは、野老さんのデザインされた
既存パターンの仕様変更からできた柄なのだそうですが、
実はこの紫陽花モチーフには
特別な思い出があると言います。

「幼い頃の記憶をたどると、生まれた家の玄関脇に
植わっていた見事な紫陽花を思い出します。
年に一度、紫がかったピンクやブルーの美しい花が咲き、
その様はある種のアナウンスのようでした。

当時の私は、紫陽花の中心部分のプツプツしている感じや、
車の中から窓にぶつかる雨粒を見るのが好きで、
よく眺めていました。
それが今、自分のデザインにおいての
個・群・律*1 へとつながるのかもしれません。
私にとっては個が群になる時に、ある種の意味を為すのです」

藍染地獄建百段階色卍(陰) 野老朝雄 × BUAISOU 2017年


一方、紫陽花のモチーフを彩る「藍」の色からは、
美しさのなかに包み込むような優しさが感じられます。
この色合いに辿り着くまでには、
野老さんとダッドウェイデザイナー臼井の両者が、
それぞれの想いを共有しながら、
理想の色合いを探し求めるプロセスがありました。

「一言で"藍色"と言っても、
"藍"はタデ科の植物を使った染物であり、
"藍色"はケミカルなもので色付けされたものも含みます。
つまり、藍と藍色というのは全く異なるものなのです。

今回のコラボレーションでは、
そんな日本古来の色である藍色を、
現代の育児のなかで表現すると
どんな色合いになるのかと、
100段階ある藍色の美しいグラデーション*3
なかから探っていきました*2

文章が書ける人は書けばいいし、
走れる人は走ればいい。
奏でられる人は奏でたらいい。
自分は人に想いを伝えるのが苦手だから、
形をつくり、図形で伝える、
と話す野老さん。

野老さんの生み出す美しく計算し尽くされた作品には、
日本古来の叡智が確かに宿っているのです。

*1 野老さんは自身のデザインにおいて、バラバラとしたものを個、それがまとまったものを群、そしてその間のおきてを律と呼ぶ。

*2 本作品に採用された紫陽花のモチーフを彩る「藍」の色は色名/「白藍(しろあい)」、平安時代の法令書の中にも記されている伝統色です。

*3 BUAISOU(徳島県で藍の栽培から染色まで一貫して行う藍師・染師。)とのコラボレーション作品。

目次へ